ヴィゴツキー入門を読み始めた。
天才と称されるヴィゴツキー。心理学や教育学に多大なる影響を与えた人。その人の入門書を読み始めました。
ヴィゴツキーの内言と外言というエッセンスは以前から知っていて、とても面白い考え方だと思っていたため楽しみにしています。学問というのは、自分の思考の範囲を大きく広げてくれるのでとても楽しいですね。インプットだけだと腐ってしまうのが難点ですが。
同時並行で、まとめることもやっています。この前読み終えた『わかりあえないということから』です。付箋を貼って自分が注目した箇所に印をつけているのですが、後輩から「付箋貼りすぎじゃないですか」と指摘されました*1。僕としてはそんなつもりはなかったんですが、印をつけた箇所を読み返してみると本筋とは関係ない箇所(田中角栄の話とか)に印が付いていたりしたので、注意散漫だなと反省しています。
「人と人がわかりあう」に関わる分野は、本当に数多くの分野・専門家たちがそれぞれ独自に考えを表しています。それゆえに、同じ言葉であっても、多様な解釈をはらんでいるため、うまく理解できないことが多くなります。それら分野を飛び越えて(学際的に)まとめあげる作業が、AI研究者には必要なんだと思います。それこそ、お互いが「わかりあえないこと」から出発しなければならないのだと。
「わかりあえないこと」というのは、一言で言えば差異のことです。お互いが違うということをきちんと認識する。それが重要だと平田オリザさんは述べています。差異がわかれば、似ている・同じということがわかるわけです。それを元にコミュニケーションしよう、したほうがいい。これは、J.J.ギブソンの不変項にも通ずるものがあるのではないと思っています。
J.J.ギブソンは、知覚と行為の循環の中から、何が変わらないものなのか僕らは常に探っているといいます。たとえるなら、ダンボール箱をみるときにいろんな角度からみるとします。目に映る像は角度によって変わりますが、その中で変わらないものがダンボールなんだと。面がいくつあって、この角度でくっついていて…という角度を変えても変わらない情報こそが手掛かりになっているのだと。
人と向き合うコミュニケーションでも同様ではないかと思います。僕が声をかけて反応する。その繰り返しの中で、「変わらないもの」こそがその人なんだということです。何十年も生き別れていて、容姿は変わってしまっても、反応の仕方で相手が誰なのかわかる。こんなロマンチックなドラマが成り立ってしまうのは、それは「変わらないもの」が見えているからでしょう。
短い期間しか関われなかった人では、その人の「変わらないもの」を見出せなかったために、数十年後に再開できたとしてもロマンチックなドラマは成り立ちません。
「わかりあえないことから」のスタートには、大きな可能性を感じます。もっと咀嚼が必要ですね。
*1:しまいには、いつか付箋の数がページ数より多くなるんじゃないですかと言われてしまいました