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TAMALOG

プログラミングがあれば遠いところへ行けます。プログラムと人の共生を記録します。

痛みは共有できるんでしょうか(痛みと言葉、そして共有)

こんばんは。

痛みって共有できるんでしょうか?どこかの偉い哲学者や心理学者がすでに解決しているかもしれませんけど、ふと疑問に思ったことを書きます。

「胃もたれ」「胸焼け」なんて言葉があるけれど、僕とあなたで「胃もたれ」と「胸焼け」はそれぞれ同じなのでしょうか?

先々週、僕は「胃もたれ」がひどくて病院へ行きました。なんの気もなしに「胃もたれがひどくて」と受付で言ったときに気づきました。僕の主張する「胃もたれ」は世間一般の「胃もたれ」と同じなのかと。なぜなら、このとき初めて「胃もたれ」になったからです(僕の記憶では初めて)。

「胃もたれ」をこれまで体験したことがないのに、それが「胃もたれ」だと分かるのはなぜでしょう? これまで使用していた言語体系からこの現象(胃もたれ)を説明するとすれば、「胃がもたれている」と分かったんでしょうか。「胃もたれ」という感覚*1が「胃もたれ」という言葉に対応することになります。言語体系を日常的に使うなかで、この対応付けが生まれているんでしょうか。誰かに「「胃もたれ」というのはこういう感覚だよ」と教わったわけでもないのに。内的感覚(内臓感覚)は共有できないのに、なぜ「胃もたれ」が「胃もたれ」であるわかるんでしょう。

こういった部分も浜田寿美男さんの「なりこみ」によって説明ができるんでしょうか……。あるいは、モーリス・メルロ=ポンティの「間身体性」の議論になるんでしょうか。

最近何かで、「言葉によって意味が分化し人間社会で生活ができる」と読みました。いったい、ことばってなんなんでしょう?ことばの意味ってなんなんでしょう?

今日は疑問で終わります。いつか回答を見つけたいものですね。

P.S.ここ最近いろいろと悩んでいたので精神的余裕がありませんでした。 P.S.内田樹さんの『街場の文体論』買いたいです。あと『達人プログラマー

*1:こういうのをクアレと言うんでしたっけ