TAMALOG

プログラミングがあれば遠いところへ行けます。プログラムと人の共生を記録します。

内定式における立食パーティーの相互行為論的考察(乱文)

今日の記述はだいぶラフな感じです。いわゆる乱文ってやつ。

内定式でした。すっごい楽しかった。でも、立食パーティー苦手です。ご飯食べたいし、人と話したいし。

人の話に割り込むとき

人の話に割り込むのって結構難しい。立ち位置に空間があると、入りやすいけど(KendonのF-formation)。それこそ2chでよく使われている「***と聞いて」を現実で使うしかない。

ネットは現実の一部なのに

ん、ちょっと待てよ。現実とネットで分けて考えているけれども、ネット自体も「現実」なんだよなぁ。なぜネットは現実として扱われていないのか? もう少し丁寧に言えば、なぜネットは現実と別物として捉えられているのか。

「書き言葉」と「話し言葉」の現実感

今考えたのは、「書き言葉」と「話し言葉」の違いなのかもしれない。その場に自分がいないのかもしれない。書き言葉には、そういう微視的な調整に必要なリアルタイム性が欠けていると考えられる。「書き言葉」ってのは、一歩引いてその話を吟味できる。「話し言葉」は吟味したり、内容の正しさについて気を使ったりする以上に、調整が必要になるために、常に応答を返さなければならない。相手の反応がほとんど固定化された「書き言葉」には、リアルタイム性、応答責任が不要なのかもしれない。

だから、読み手に負荷はほとんどかからない。それは非現実と捉えられているのかも。

ということは、現実感をささえているのは、随伴性(相手が動けば自分も動くというカップリング)や呼応(相手と自分がひとつのシステムのように密接に対応している)ことなのだろう。

意味が固定された言葉で会話に割り込む

まぁ、話を戻すと、立食パーティーで会話を楽しんでいる彼らの間で形成された場を乱すことに抵抗がある、というだけの話だ。そこを克服するためには、リアルタイム性が弱いもの(記号としての役割が強いもの)を利用するといいだろう。例えば、「***と聞いて」という言葉を使う。その言葉は定型文(意味が強い)で、相手とやりとりすることを重視する部分(繋合性と定義する)が弱い。だから、リアルタイムにやりとりされる必要が薄れて、言葉だけのコミュニケーションができる。言葉だけというのは言いすぎだけれども。

立ち位置における表情(社会的立ち位置・参加態度の表出)

先輩方々の足の動きを見ながら、「今、会話から抜けようとしているな」とか「興味津々だな」とか見てました。それを見ていたおかげで、僕と話していた人が呼ばれて戻ってくるかどうか判断できた。呼ばれた当初は、わりとせわしなかった動きが、話が盛り上がるにつれてせわしなさが失われて、最終的に居着いていた。その過程を見られて満足。やはり、立食パーティは勉強になる。

関係が位置づけるもの

先輩と一緒に話せてよかったことがあった。「意味は関係から現れてくる」という話をメディア論的に展開出来たことはとてもよかった。相手は長々と話されて迷惑だっただろうけど。キャラクター同士の関係が、お互いの性格・個性を位置づけているという話をした。本来僕らの個性や性格は、あらかじめ決められるものではなく、やりとりの中から湧き出てくる。昔のキャラクターと今の同人文化を引き合いに出したのが効果的なようだった。それをブランディングに繋げられないかという話にまで展開していただいたのは、さすがとしか言いようがない。

すれちがうときの相互行為

そういえば、駅ですれちがうときに、相手と同じ方向に何度も避けてしまう現象って名前あるんだろうか? あれは、kendonの志向空間が重なり合ってしまったときに、共同空間と変質してしまったために起こると推測している。あれが現状のロボット同士なら、きっとうまく避けられる。それができないのは、人間とロボットとの間に大きな隔たりがあるということなんだろう。これは、社会性の議論になる。

スピーチ中の言い淀み

内定式だったので、スピーチをいくつか聞いたのだけれど、話者が言い淀むシーンが印象に残った。言い淀みってのは意外にも社会的なものなのだけど、今回は少し別。「****のときは、300人でー…? ん? 300人だっけ?」と事実と自分の記憶をすり合わせる必要がでたときに生じた言い淀み。「300人だっけ?」というフレーズで、その事実を知っている(唯一の)人に視線を向けて確認したんだけれども、「そうだっけ?」と曖昧な返答を受けていた。

でも、スピーチはその事実の正確性を保留にして「300人」として進んで、そのあとは何事もなく終わった。ここでおもしろく感じたのは、スピーチという発話行為に関していえば、確認せずともスピーチは進んだと考えられること。結局のところ、事実は曖昧なまま放置されたのだから。

それでも、確認せずに要られなかったのはなぜか。単なる情報を確認したというよりも、「そのエピソード、数字が曖昧だけどしゃべるよ?」というやりとりが行われていたんじゃないか。情報の確認以上に、やりとりに意味があったんじゃないかと僕は考えている。「300人」と発話してしまったことに対する尻拭いだったのかもしれない。

事実が媒介となるコミュニケーション

もうひとつ。さきほどと同じところで、おもしろく感じたのが、事実を媒介にして、スピーチ話者と事実を知っている人間がコミュニケーションしていたところ。事実ってのが浜田先生の言う三項関係となって「なり込み」を生じさせる。「んー」とスピーチ話者が悩んでいるときに、同じように尋ねられた人間が「んー」と似たように悩む。もちろん、事実が共有されていなくても、同じような動作は見られるだろうけども、その深さは異なるんだろうと思う。知らなければ、割りとあっさり「知りませんよ」と答えるだろうし。コミュニケーションに慣れている人であれば、悩んでいる「フリ」だってできる。

まとめると、事実や物事っていうのは、コミュニケーションの媒介(促進剤というのが適切か)になるのだということをスピーチを聞いていて思ったのです。

余談

これを書いている間にプログラムが無事終了してくれて満足。