努力というより工夫。「がんばれ」「がんばる」からの脱出
どこかで聞いた言葉。出典は忘れてしまったけれど、とても印象に残った言葉と出会いました。
何か現状に満足できないとき、「もっとがんばらなきゃ」と気持ちを奮わせて挑むけれど、どうにもうまくいかない。
そういうとき、自分に「がんばれ」と言いつつも、友達に愚痴をこぼしてしまう。「うまくいかないんだ……」
友達は、「もっと***をがんばれ」とアドバイスをくれる。他人に言われただけで「わたしはがんばっているのに」と反発してしまう。
やらなきゃいけないことがわかっているのに、どうしても手につかない。そんなとき「がんばれ」「自分ならできる」と自分に喝を入れる。
努力しなきゃいけないという切迫感に「がんばれ」という言葉があたりまえのように、ひっついているけれども、「がんばれ」ってのは無責任。「がんばれ」はただの激励、ただの呪文。
「努力しろ!」と言われても「努力しなきゃ!」と思っても、何をすればいいのか、雲を掴むよう。
終いには、「やらなきゃいけない」という言葉だけが空虚に残って、焦燥感だけになる。そうなると、焦っている自分に満足してしまって、何もしない、何もできない。「わたしはこんなにも苦しんでいるんだ」という無意味な優越感。
努力とかがんばれとか、空虚とは言わないけれど、言葉に振り回されてしまう人にとっては案外やっかいなもの。
そこでヒント。
「努力より工夫」だと。ただがむしゃらに努力するのではなく、手を動かして目標を見つけ、少しずつ工夫する。それが重要なんだと。
ただただ努力という広く先の見えない暗闇を進む必要はないんだ。自分の手に届くか届かないかギリギリのところに手を伸ばして、少しずつ明かりをつけていけばいい。それが工夫なのだと。