TAMALOG

プログラミングがあれば遠いところへ行けます。プログラムと人の共生を記録します。

焦りが募る。迷い。

ちょっと後ろ向きな記事です。

土曜日から日曜日にかけて、大学祭でした。

内定式も終わり、大学祭も終わり、段々と社会人に近づいてきて焦りが出てきました。

内定者LINEグループでは活発に情報がやりとりされています。僕自身は一人でいるのが好きなのか、あまり積極的にやりとりしようという気持ちにならないのが不思議です。研究室旅行、社員旅行の話題が出たときも、なぜか行きたくないなぁと思ったくらいです。単純にプライベートと仕事を分けたいと感じているんでしょうか。

おもしろいことを考えるよりも、物事を分析するほうが好きなので、研究職も考えましたが、こうして就職を選びました。就職を決めた時点から考えていたことですが、仕事をしてお金を貯めて大学で博士を取ろうという目論見もあります。

この世界で僕が生きるには情報が多すぎる気がします。雑多な情報が多すぎる。みんなこなしていることですが、引っ越し、研究、趣味、頼まれごと、SNS(LINE)、あまりにも多すぎる。一歩間違えば甘えですが「みんなやっていることだから、あなたも」という考え方は危険なのかもしれません。

社会人になったら、シンプルな生活を心がけたいと思います。

以上を書いてみてわかったことですが、現状では一歩も歩みを進めていません。頭でっかちに考えすぎでしょう。きっと一歩踏み出せば、次々とすすめるはずです。

P.S.最近迷ってばかりです。

考えていること

ここに並べたのは上記の文章から生まれた副産物です。葛藤の副産物です。

利点と欠点が見えるけど

二律背反。何も考えたくないからお酒を飲む。お酒を飲むと何もできなくなる。物事には利点と欠点の両面が存在します。利点と欠点を同じように捉えると、身動きが取れなくなります。当然です。利点を挙げて、欠点を挙げて、それぞれについて検討しない限り、「物事には利点と欠点がある」ということしか残りませんから。

利点と欠点が見えることは、とても良いことですが、ただ列挙するだけでは生産的な行為ではありません。そこから今の状況を考えて優先順位をつけなければ、生産的な行為ではありません。利点と欠点は一つの制約・条件です。それのどれを重要と捉えるかは、一意見として昇華する上では必要なことです。ですから、意見なきアドバイスは非常に厄介です。「これこれこうすると、これこれこうだから、私はこれこれこうしたほうがいいと考えます。」というだけで議論が進みます。「これこれこうすると、これこれこうだよ」だけでは足りないのです。

コンピュータと共生

コンピュータで何をしようというのか。今後のコンピュータは人間と共生の方向へ向かっていくというのが持論です。コンピュータはこれまで数値計算などをするためのツールでした。今は機械学習などの最先端研究によって、人間が及ばないような成果を残しています。人間が残す大量のデータ(無意識・有意識問わず)を用いて、人間に対して一つの意見として、情報を提示するように変化していくでしょう。「こういうのはどう?」と。今では、集合知(強調フィルタリングなど)や機械学習によるレコメンデーションシステムなどによって徐々に実現されています。そのうち、コンピュータがコンシェルジュや秘書のように私たち一人一人に、寄り添ってくれる日が来ると思います。ロックマンエグゼのような。

隠れた自分から受ける影響

「隠れた自分」という言葉は、チュニジア出身の方と哲学について話したときに出てきた言葉です。いわゆる無意識です。上節とつながりますが、コンピュータの履歴に残ったものは隠れた自分です。コンピュータが隠れた自分を顕在化しているわけです。LINEで連絡を取ろうとしたときに、履歴が目に入って以前のやりとりに驚くこともあると思います。既読スルーして終わっていたんだな、とか。変なスタンプ送りつけたな、とか。

それを一度意識してしまうと、呼びかけようと思っていた自分に微妙な変化が訪れます。前回は既読スルーしていたのに、呼びかけていいのだろうかとか。ためらいに変わります。案外人間は不安定なものです。その程度で変化してしまうのですから。LINEでは履歴が真っ先に目に飛び込んできますが、それらはメールにはなかったものですね。メールは履歴があったとしても後半に追記される形でしたから。

Twitterやメールでは、最新のものが上に来ますね。LINEでは、最新のものが下に来ますね。この違いはなんでしょうか。上から文字を読む慣習があるため、LINEでは履歴から読みます。Twitterやメールでは、最新から読みます。

履歴を読んでしまうと、文脈を考えるために、次に書く言葉がつられて変化します。たとえ履歴が自分の言葉だけであっても変化します。本来なら独立して書いても良い言葉なのに、影響を受けます。

僕は、この微妙な変化について深く考えてみたいです。そこには言語コミュニケーションでの大切なことが隠れている気がします。