あけましておめでとうございます
読者のみなさん、昨年はお世話になりました。みなさんの役に立つブログを意識して記事を執筆したいと思います。今年もよろしくお願いいたします。
節目というのは、おもしろいですね。年末と年始だって、時間という枠ではひとつづきです。平坦なものに緩急を見出すと、気持ちが高まりますね!
今年は、僕にとって変化が多い年となりそうです。生活する拠点も変わりますし、所属するコミュニティも大きく変わります。
今年はどんな年になるでしょう?そう考えるとワクワクしますね。
- どんな人と会うでしょう?
- どんな経験をするでしょう?
- どんなことに興味が湧くでしょう?
- どんなことに気づくでしょう?
- どんな進展があるでしょう?
2016年さん、1年間どうぞよろしくお願いします!!!!
データが好き
データベースの勉強がてら、久しぶりにSQLiteを触りました。データベースを触るのは久しぶりで感覚を取り戻すのが難しいです。
最近いろんなデータが自分の周りに舞い込んできて、エクセルにまとめていました。データを眺めるのは好きな質で、データをシートに転記しながらニヤニヤしていました。最初のうちは……。エクセルはセルの使い方の自由度が高くて感覚的に使いやすいのですが、構造化された文書が徐々に欲しくなってきました。HTMLとかXML最高です。
最近ですと、Pythonからエクセルファイルを扱えるらしいですが、あまり興味が沸かなかったので、単純にデータベースを再学習しようと思いました。
昔から自動化がとても好きで、今もPhotoshopの自動化スクリプトの勉強を並行しています。
データが集まっていくのを眺めるのはとてもいいですね。自動的に収集されたデータを自動的にグラフ化したりできたらと思うと、よだれがでてきますね。
「夢をかなえるゾウ2」感想
『夢をかなえるゾウ2』を読みました。1と同様ガネーシャがおもしろかったです。
印象に残った言葉
「人の幸福を羨んではいけない。なぜならあなたは彼の密かな悲しみを知らないのだから」ーーダンデミス
となりの芝は青いと僕らは思いがちだけど、その芝は大変な苦労の末に手に入れられたものなら、それは本当にほしいですか。そういう問いをダンデミスの言葉から受け取りました。「なりたい」とか「やりたい」とか気軽に言いがちですが、本当になりたいもの、本当にやりたいことなのか、立ち止まって考え直すことが必要な気がします。
今回の教え
教えに共通することは、自分の中に閉じこもっていないで他人と触れ合いなさいということでしょうか。
- 図書館に行く
- 人の意見を聞いて直す
- 締切をつくる
- つらい状況を笑い話にして人に話す
- 優先順位の一位を決める
- やりたいことをやる
- 楽しみをあとに取っておく訓練をする
- プレゼントをする
- 他の人が気づいていない長所をホメる
- 店員を喜ばせる
- 自分が困っているときに、困っている人を助ける
- 欲しいものを口に出す
- 日常生活の中に楽しみを見つける
- つらいとき、自分と同じ境遇にいる人を想像する
さいごに
ガネーシャの教えというのは、個人で取り組むには難しい思います。この小説はフィクションですが、まがりなりにも主人公のすぐそばにガネーシャがいます。誰かがそばで見ているという状況は、だらけにくいので効果的に進めるのでしょう。
僕が実践するとしたら、細かな記録をつけたり、誰かと一緒に取り組むと思います。作中の言葉ではありますが、「人は楽しいことしかできない」ものです。その行動に楽しみを見出すことが、一番大事なことかなと思いました。
図書館めぐり(こども図書館)
国立国会図書館国際子ども図書館へ行ってきました。東京都美術館へ行く途中に「国際子ども図書館」の標識を見つけて訪ねてみました。
残念なことに、改装しているのか工事用の布が被さっていました。アーチ状の建物を目の前にしてみたかったのですが、残念です。 そういうときはGoogle ストリートビューか何かで心を満たします。
印象に残ったのは、「かがくのとも」という雑誌の「ねじ」という本でした。 なぜか最近ねじに関わることが多いので、思わず手にとってしまいました。 鉛筆のスケッチと文章が合わさった絵本でした。 ねじの特徴がスケッチ付きで紹介されていて、ボンドより強力、釘より取り外しやすいなどの性質が紹介されていました。
「ねじジャパン」や「ねじの誕生秘話」をつい最近聞いた僕は、妙に感慨深く感じてしまいました。「ねじ」の本を読んで喜ぶこどもはいるんでしょうか。
研究用の資料室には、児童文学の本がたくさん集められていました。開架式の図書館でしたが、ほとんどの資料が閉架でした。 閉架資料を手元に取り寄せるには、カウンターで問い合わせる必要がありました。 僕が行った時間には、取り寄せの締め切りを過ぎていて、取り寄せることはできませんでした。 とは言っても、もともと、ふらっと立ち寄っただけなので、取り寄せたい資料はありませんでしたが。
16:30ころ(閉館は17:00)、僕が訪れたときには数名しか閲覧者はいないようでした。 ノートに一生懸命メモをとっている方がいましたが、児童文学の研究などをやっていたのでしょう。
アンデルセン、イソップ、サン=テグジュペリなど僕でも名前くらいは知っている作品が開架されていました。 16:55ころまで、開架されている本をさらさらーと流し見していました。 その中で気になったのは、読み聞かせという分野です。
資料室では目立つ位置に「読み聞かせ」や「お話」、「ストーリーテリング」などの特集が組まれていました。 いくつか本を開いて「お話」というのは、大昔から存在するものだと知りました。 考えてみれば当たり前で、文字だけでなく、宗教や英雄譚、歴史、神話など至るところで「お話」として口伝されてきています。 楽器を手にさまざまな地域を回ったとされる吟唱詩人の功績も大きいことでしょう。
「読み聞かせ」は僕が中学生のころ、地元の図書館で盛んに行われていた気がします。十年くらい前のことです。 友人の母が積極的にボランティアとして、児童へ読み聞かせを行っていました。 最近読んだ図書館学の本によるとアメリカでは、児童が訓練された犬に対して、読み聞かせをするサービスが一部の図書館で行われているそうです。 犬を相手に子どもが読み聞かせをします。
犬への読み聞かせの背景には、養育者効果(The Protégé Effect)があるのでしょう。誰かにものを教えることは、一方的な提供ではなくて、養育者も被養育者も、一緒に成長する性質が知られています。 これが養育者効果です。
話を元に戻します。私は誰かに「お話」をするという経験がほとんどありません。 当然芸人のように自身の経験をおもしろおかしく(オチをつけて)物語として語ることが苦手です。 ですから、おもしろい話をするヒントを求めて手にとったのが、ストーリーテリングやお話の本だったわけです。 実際はあまり参考にはなりませんでした。
この話を書いていて、前に小説書きの友人から「物語というのは大昔からあるんだよ」と語られたことを思い出しました。 物語にすると記憶しやすいというのは、きっとエピソード記憶が関わっているのでしょう(詳しくないですが)。 最近ですと、マンガマーケティングという分野に活用されていると思います。
国際子ども図書館は、上野駅から歩いて10分程度のところに位置しています。 子育てをするなら、地方が絶対いいだろうと思っていましたが、このようなこども向けの施設があるのなら、東京でもいいなぁと思い直すきっかけになりました。
こども図書館は、国会図書館の系譜だけあって、透明なビニール袋に貴重品を入れるシステムは同じでした。 今回はたまたま上野駅に降り立ったときに標識を見つけたので、とても良い収穫でした。
図書館が好きなので、いつかは国内すべての図書館を訪れてみたいです。
モネ展へ
東京へ行く用事があったので、東京都美術館で開催されていたモネ展に行きました。
平日にもかかわらず、モネの代表作である睡蓮の連作は大人気で人だかりができていました。ちょっとだけ通路を通るのが大変でした。
僕はモネの晩年の荒々しさが好きです。今回の展覧会で再確認しました。
色彩や筆致は荒々しいけど、水や物体があることが伝わってくるのが良いですね。
僕のお気に入りの作品は、「バラ園から見た画家の家」「日本の橋」です。表題が同じものがいくつかありますが、どれも甲乙つけがたい。
「バラ園から見た画家の家」を見ていて思い起こしたのは、「肌理」という言葉でした。
生態心理学で有名なJ.J.Gibsonが、優秀なパイロットと優秀でないパイロットの違いについて研究していたときに考えついたものだそうです。 ヒトが床や地面を見ているときに、近くあるものは荒く、遠くにあるものは滑らかに見える「肌理」に、区別するヒントがあると考えました。 空気遠近法などの手法のように、遠いものは細部が認識しづらく、近いものは認識しやすいという前提にもとづいています。
モネの晩年の作品は色彩はめちゃくちゃです。きっと意味合いがあるのでしょうが、僕にはうまく受け取れませんでした。 それでも僕がいいなぁと感じたのは筆致が理由です。モネの作品は、筆の流す向きが縦や横としてきっちり分けて描かれていると思います。 モネ展の解説ボードにも、ときどき筆致に関する記述がありました。
デジタルではなかなか表現しづらい筆致ですが、アナログでは筆致がきれいに現れます。 美術館では適切なライティングでカンバスの凹凸が強調されます。
モネの絵は、近くで見るとよくわからないのだけど、少し離れて見ると、キャンバスに「面」が見えてきます。僕がモネを好きな理由の一つです。 今日モネ展で、すれ違った老夫婦も「面」の話をしていました。 女性「なんだかよくわからない」 男性「目を細めてみると、水面がぱっと浮かぶ瞬間があるよ」
睡蓮は面の代表例だと私は思います。 水面と睡蓮の葉が、明らかに筆致が違います。 水面と水面に写った樹や空は、縦方向に描かれるのに対し、睡蓮の葉は、横方向に筆を動かして描かれています。
「日本の橋」という作品もそうです。橋とその他(水面と空など)は明らかに筆致が違います。 筆の向きというのは、ほとんど意識しないものだと思いますが、認知に大きな影響を与えています。
ここ半年くらいモネの作品を見ていませんでしたが、大きなキャンバスで見ることができて満足しています。 以前は画像ファイルだけで十分だろと思っていた時期もありましたが、 自分の立ち位置によって見え方が変わったり、編集者が編集してくれた順序で回れたりする美術館は、 インターネットで画像を見るよりも、遥かに有意義だと今では思っています。
次は、どこかの博物館へ行こうと思います。いつも足を運ぶのは美術館ですが、読書会で知り合った方から博物館を勧めてもらいました。 その人が見た「始皇帝と大兵馬俑」も、すぐ近くの東京博物館で開催されていました。 今回は美術館のほかに図書館に寄ってしまったので、そちらは保留となってしまいました。
博物館というのは、小学生の頃以来入ったことがないので、思いがけない良い刺激が得られそうです。
焦りが募る。迷い。
ちょっと後ろ向きな記事です。
土曜日から日曜日にかけて、大学祭でした。
内定式も終わり、大学祭も終わり、段々と社会人に近づいてきて焦りが出てきました。
内定者LINEグループでは活発に情報がやりとりされています。僕自身は一人でいるのが好きなのか、あまり積極的にやりとりしようという気持ちにならないのが不思議です。研究室旅行、社員旅行の話題が出たときも、なぜか行きたくないなぁと思ったくらいです。単純にプライベートと仕事を分けたいと感じているんでしょうか。
おもしろいことを考えるよりも、物事を分析するほうが好きなので、研究職も考えましたが、こうして就職を選びました。就職を決めた時点から考えていたことですが、仕事をしてお金を貯めて大学で博士を取ろうという目論見もあります。
この世界で僕が生きるには情報が多すぎる気がします。雑多な情報が多すぎる。みんなこなしていることですが、引っ越し、研究、趣味、頼まれごと、SNS(LINE)、あまりにも多すぎる。一歩間違えば甘えですが「みんなやっていることだから、あなたも」という考え方は危険なのかもしれません。
社会人になったら、シンプルな生活を心がけたいと思います。
以上を書いてみてわかったことですが、現状では一歩も歩みを進めていません。頭でっかちに考えすぎでしょう。きっと一歩踏み出せば、次々とすすめるはずです。
P.S.最近迷ってばかりです。
考えていること
ここに並べたのは上記の文章から生まれた副産物です。葛藤の副産物です。
利点と欠点が見えるけど
二律背反。何も考えたくないからお酒を飲む。お酒を飲むと何もできなくなる。物事には利点と欠点の両面が存在します。利点と欠点を同じように捉えると、身動きが取れなくなります。当然です。利点を挙げて、欠点を挙げて、それぞれについて検討しない限り、「物事には利点と欠点がある」ということしか残りませんから。
利点と欠点が見えることは、とても良いことですが、ただ列挙するだけでは生産的な行為ではありません。そこから今の状況を考えて優先順位をつけなければ、生産的な行為ではありません。利点と欠点は一つの制約・条件です。それのどれを重要と捉えるかは、一意見として昇華する上では必要なことです。ですから、意見なきアドバイスは非常に厄介です。「これこれこうすると、これこれこうだから、私はこれこれこうしたほうがいいと考えます。」というだけで議論が進みます。「これこれこうすると、これこれこうだよ」だけでは足りないのです。
コンピュータと共生
コンピュータで何をしようというのか。今後のコンピュータは人間と共生の方向へ向かっていくというのが持論です。コンピュータはこれまで数値計算などをするためのツールでした。今は機械学習などの最先端研究によって、人間が及ばないような成果を残しています。人間が残す大量のデータ(無意識・有意識問わず)を用いて、人間に対して一つの意見として、情報を提示するように変化していくでしょう。「こういうのはどう?」と。今では、集合知(強調フィルタリングなど)や機械学習によるレコメンデーションシステムなどによって徐々に実現されています。そのうち、コンピュータがコンシェルジュや秘書のように私たち一人一人に、寄り添ってくれる日が来ると思います。ロックマンエグゼのような。
隠れた自分から受ける影響
「隠れた自分」という言葉は、チュニジア出身の方と哲学について話したときに出てきた言葉です。いわゆる無意識です。上節とつながりますが、コンピュータの履歴に残ったものは隠れた自分です。コンピュータが隠れた自分を顕在化しているわけです。LINEで連絡を取ろうとしたときに、履歴が目に入って以前のやりとりに驚くこともあると思います。既読スルーして終わっていたんだな、とか。変なスタンプ送りつけたな、とか。
それを一度意識してしまうと、呼びかけようと思っていた自分に微妙な変化が訪れます。前回は既読スルーしていたのに、呼びかけていいのだろうかとか。ためらいに変わります。案外人間は不安定なものです。その程度で変化してしまうのですから。LINEでは履歴が真っ先に目に飛び込んできますが、それらはメールにはなかったものですね。メールは履歴があったとしても後半に追記される形でしたから。
Twitterやメールでは、最新のものが上に来ますね。LINEでは、最新のものが下に来ますね。この違いはなんでしょうか。上から文字を読む慣習があるため、LINEでは履歴から読みます。Twitterやメールでは、最新から読みます。
履歴を読んでしまうと、文脈を考えるために、次に書く言葉がつられて変化します。たとえ履歴が自分の言葉だけであっても変化します。本来なら独立して書いても良い言葉なのに、影響を受けます。
僕は、この微妙な変化について深く考えてみたいです。そこには言語コミュニケーションでの大切なことが隠れている気がします。