TAMALOG

プログラミングがあれば遠いところへ行けます。プログラムと人の共生を記録します。

meanshift

meanshiftというアルゴリズムで、画像のセグメンテーションを行ってみました。

今回使用した画像は、「Hatsune Miku / Crypton Future Media inc. / CC BY-NC」です。

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こちらの画像は大きすぎるので、縮小。

meanshiftによる画像変換

変換前(before meanshift)

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変換後(after meanshift)

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画素の3次元プロット

変換前(before meanshift)

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変換後(after meanshift)

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結果

色数がまとまりを持つようになりました。低周波成分を取り出せるかも? サリエンシーマップに応用できそうですね。

内定式における立食パーティーの相互行為論的考察(乱文)

今日の記述はだいぶラフな感じです。いわゆる乱文ってやつ。

内定式でした。すっごい楽しかった。でも、立食パーティー苦手です。ご飯食べたいし、人と話したいし。

人の話に割り込むとき

人の話に割り込むのって結構難しい。立ち位置に空間があると、入りやすいけど(KendonのF-formation)。それこそ2chでよく使われている「***と聞いて」を現実で使うしかない。

ネットは現実の一部なのに

ん、ちょっと待てよ。現実とネットで分けて考えているけれども、ネット自体も「現実」なんだよなぁ。なぜネットは現実として扱われていないのか? もう少し丁寧に言えば、なぜネットは現実と別物として捉えられているのか。

「書き言葉」と「話し言葉」の現実感

今考えたのは、「書き言葉」と「話し言葉」の違いなのかもしれない。その場に自分がいないのかもしれない。書き言葉には、そういう微視的な調整に必要なリアルタイム性が欠けていると考えられる。「書き言葉」ってのは、一歩引いてその話を吟味できる。「話し言葉」は吟味したり、内容の正しさについて気を使ったりする以上に、調整が必要になるために、常に応答を返さなければならない。相手の反応がほとんど固定化された「書き言葉」には、リアルタイム性、応答責任が不要なのかもしれない。

だから、読み手に負荷はほとんどかからない。それは非現実と捉えられているのかも。

ということは、現実感をささえているのは、随伴性(相手が動けば自分も動くというカップリング)や呼応(相手と自分がひとつのシステムのように密接に対応している)ことなのだろう。

意味が固定された言葉で会話に割り込む

まぁ、話を戻すと、立食パーティーで会話を楽しんでいる彼らの間で形成された場を乱すことに抵抗がある、というだけの話だ。そこを克服するためには、リアルタイム性が弱いもの(記号としての役割が強いもの)を利用するといいだろう。例えば、「***と聞いて」という言葉を使う。その言葉は定型文(意味が強い)で、相手とやりとりすることを重視する部分(繋合性と定義する)が弱い。だから、リアルタイムにやりとりされる必要が薄れて、言葉だけのコミュニケーションができる。言葉だけというのは言いすぎだけれども。

立ち位置における表情(社会的立ち位置・参加態度の表出)

先輩方々の足の動きを見ながら、「今、会話から抜けようとしているな」とか「興味津々だな」とか見てました。それを見ていたおかげで、僕と話していた人が呼ばれて戻ってくるかどうか判断できた。呼ばれた当初は、わりとせわしなかった動きが、話が盛り上がるにつれてせわしなさが失われて、最終的に居着いていた。その過程を見られて満足。やはり、立食パーティは勉強になる。

関係が位置づけるもの

先輩と一緒に話せてよかったことがあった。「意味は関係から現れてくる」という話をメディア論的に展開出来たことはとてもよかった。相手は長々と話されて迷惑だっただろうけど。キャラクター同士の関係が、お互いの性格・個性を位置づけているという話をした。本来僕らの個性や性格は、あらかじめ決められるものではなく、やりとりの中から湧き出てくる。昔のキャラクターと今の同人文化を引き合いに出したのが効果的なようだった。それをブランディングに繋げられないかという話にまで展開していただいたのは、さすがとしか言いようがない。

すれちがうときの相互行為

そういえば、駅ですれちがうときに、相手と同じ方向に何度も避けてしまう現象って名前あるんだろうか? あれは、kendonの志向空間が重なり合ってしまったときに、共同空間と変質してしまったために起こると推測している。あれが現状のロボット同士なら、きっとうまく避けられる。それができないのは、人間とロボットとの間に大きな隔たりがあるということなんだろう。これは、社会性の議論になる。

スピーチ中の言い淀み

内定式だったので、スピーチをいくつか聞いたのだけれど、話者が言い淀むシーンが印象に残った。言い淀みってのは意外にも社会的なものなのだけど、今回は少し別。「****のときは、300人でー…? ん? 300人だっけ?」と事実と自分の記憶をすり合わせる必要がでたときに生じた言い淀み。「300人だっけ?」というフレーズで、その事実を知っている(唯一の)人に視線を向けて確認したんだけれども、「そうだっけ?」と曖昧な返答を受けていた。

でも、スピーチはその事実の正確性を保留にして「300人」として進んで、そのあとは何事もなく終わった。ここでおもしろく感じたのは、スピーチという発話行為に関していえば、確認せずともスピーチは進んだと考えられること。結局のところ、事実は曖昧なまま放置されたのだから。

それでも、確認せずに要られなかったのはなぜか。単なる情報を確認したというよりも、「そのエピソード、数字が曖昧だけどしゃべるよ?」というやりとりが行われていたんじゃないか。情報の確認以上に、やりとりに意味があったんじゃないかと僕は考えている。「300人」と発話してしまったことに対する尻拭いだったのかもしれない。

事実が媒介となるコミュニケーション

もうひとつ。さきほどと同じところで、おもしろく感じたのが、事実を媒介にして、スピーチ話者と事実を知っている人間がコミュニケーションしていたところ。事実ってのが浜田先生の言う三項関係となって「なり込み」を生じさせる。「んー」とスピーチ話者が悩んでいるときに、同じように尋ねられた人間が「んー」と似たように悩む。もちろん、事実が共有されていなくても、同じような動作は見られるだろうけども、その深さは異なるんだろうと思う。知らなければ、割りとあっさり「知りませんよ」と答えるだろうし。コミュニケーションに慣れている人であれば、悩んでいる「フリ」だってできる。

まとめると、事実や物事っていうのは、コミュニケーションの媒介(促進剤というのが適切か)になるのだということをスピーチを聞いていて思ったのです。

余談

これを書いている間にプログラムが無事終了してくれて満足。

ベンヤミンのアウラの解説記事を紹介

学部時代「言語と思想」という授業を受けていました。

そこで登場したベンヤミンアウラという概念。当時は、なんとなくしか理解できていませんでしたが、次で紹介する記事を読んで、以前より理解が進みました。僕にとって理解の鍵となったのは、「アウラの喪失」の喪失の部分でした。

sharp.hatenablog.com

斉藤孝『身体感覚を取り戻す』

斉藤孝さんの『身体感覚を取り戻す』を読み終わりました。

このところ、塩田剛三や三船久蔵、黒田鉄山の動画をよく見ます。昔、剣道をやっていたこともあって、武道に関心をもつようになりました。

検索していると、誰が一番強いのかや、どの格闘技が一番実践的かという議論が掲示板で行われているようです。僕はあまりそういう議論に興味はありません。

甲野善紀は「人間の歴史の中で、伝承が途切れた」と自らの憂いを表現しています。

武道はとても興味深いです。言葉にしがたいですが、なかなか衝撃を受けました。

痛みは共有できるんでしょうか(痛みと言葉、そして共有)

こんばんは。

痛みって共有できるんでしょうか?どこかの偉い哲学者や心理学者がすでに解決しているかもしれませんけど、ふと疑問に思ったことを書きます。

「胃もたれ」「胸焼け」なんて言葉があるけれど、僕とあなたで「胃もたれ」と「胸焼け」はそれぞれ同じなのでしょうか?

先々週、僕は「胃もたれ」がひどくて病院へ行きました。なんの気もなしに「胃もたれがひどくて」と受付で言ったときに気づきました。僕の主張する「胃もたれ」は世間一般の「胃もたれ」と同じなのかと。なぜなら、このとき初めて「胃もたれ」になったからです(僕の記憶では初めて)。

「胃もたれ」をこれまで体験したことがないのに、それが「胃もたれ」だと分かるのはなぜでしょう? これまで使用していた言語体系からこの現象(胃もたれ)を説明するとすれば、「胃がもたれている」と分かったんでしょうか。「胃もたれ」という感覚*1が「胃もたれ」という言葉に対応することになります。言語体系を日常的に使うなかで、この対応付けが生まれているんでしょうか。誰かに「「胃もたれ」というのはこういう感覚だよ」と教わったわけでもないのに。内的感覚(内臓感覚)は共有できないのに、なぜ「胃もたれ」が「胃もたれ」であるわかるんでしょう。

こういった部分も浜田寿美男さんの「なりこみ」によって説明ができるんでしょうか……。あるいは、モーリス・メルロ=ポンティの「間身体性」の議論になるんでしょうか。

最近何かで、「言葉によって意味が分化し人間社会で生活ができる」と読みました。いったい、ことばってなんなんでしょう?ことばの意味ってなんなんでしょう?

今日は疑問で終わります。いつか回答を見つけたいものですね。

P.S.ここ最近いろいろと悩んでいたので精神的余裕がありませんでした。 P.S.内田樹さんの『街場の文体論』買いたいです。あと『達人プログラマー

*1:こういうのをクアレと言うんでしたっけ

マッハの絵

哲学者エルンスト・マッハが書いた絵と言われているのが下の絵です。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/Ernst_Mach_Inner_perspective.jpg/1024px-Ernst_Mach_Inner_perspective.jpg

久しぶりに「マッハの絵」を見ました。ぼーっといろんなこと考えていたときに、「マッハの絵」という言葉がふわっと頭の中をよぎったので調べてみました。マッハの絵は、数種類あるようですね(上の絵はwikipediaのものです)。

上のマッハの絵には、僕ら人間の見ている視界が描かれています。この絵は、心理学や現象学の分野に大きな影響を与えました。『アフォーダンスの心理学』という本でも、説明の引き合いに出されていたような気がします。現象学の分野にどのような影響を与えたのかは、詳しくないのでわかりませんが興味深いです。

視覚や錯視に詳しい人であれば、「マッハ」と聞いて「マッハバンド(マッハの帯)」を思い出した人がいるでしょう。その錯視の発見者らしいですね。僕は色彩検定で知りました。

そういえば、マッハバンドの生理学に基づいて画像コントラストを自然に強調しようという試みがあったのを思い出しました。以前、下の論文の手法を実装しました。理論はわかりやすいので簡単に実装できると思います。

ci.nii.ac.jp

話は「マッハの絵」に戻ります。マッハの絵には、自分の鼻が写り込んでいます。この鼻の存在が、ゲームの3d酔いを低減することが発表されています。下はGIGAZINEの記事です。

gigazine.net

僕の周りでは「たしかに、なんで鼻の存在に気づかなかったんだろう」という声を多数聞きます。この時代になっても、こんな素朴で重要な発見が放置されていたことに驚きを感じています。身近だからこそ見えないことがあるんでしょうね。

身近なものを問い直す勇気が試されている気がしています。

ヴィゴツキー入門を読み始めた。

天才と称されるヴィゴツキー。心理学や教育学に多大なる影響を与えた人。その人の入門書を読み始めました。

ヴィゴツキーの内言と外言というエッセンスは以前から知っていて、とても面白い考え方だと思っていたため楽しみにしています。学問というのは、自分の思考の範囲を大きく広げてくれるのでとても楽しいですね。インプットだけだと腐ってしまうのが難点ですが。

同時並行で、まとめることもやっています。この前読み終えた『わかりあえないということから』です。付箋を貼って自分が注目した箇所に印をつけているのですが、後輩から「付箋貼りすぎじゃないですか」と指摘されました*1。僕としてはそんなつもりはなかったんですが、印をつけた箇所を読み返してみると本筋とは関係ない箇所(田中角栄の話とか)に印が付いていたりしたので、注意散漫だなと反省しています。

tamanobi.hatenablog.com

「人と人がわかりあう」に関わる分野は、本当に数多くの分野・専門家たちがそれぞれ独自に考えを表しています。それゆえに、同じ言葉であっても、多様な解釈をはらんでいるため、うまく理解できないことが多くなります。それら分野を飛び越えて(学際的に)まとめあげる作業が、AI研究者には必要なんだと思います。それこそ、お互いが「わかりあえないこと」から出発しなければならないのだと。

「わかりあえないこと」というのは、一言で言えば差異のことです。お互いが違うということをきちんと認識する。それが重要だと平田オリザさんは述べています。差異がわかれば、似ている・同じということがわかるわけです。それを元にコミュニケーションしよう、したほうがいい。これは、J.J.ギブソンの不変項にも通ずるものがあるのではないと思っています。

J.J.ギブソンは、知覚と行為の循環の中から、何が変わらないものなのか僕らは常に探っているといいます。たとえるなら、ダンボール箱をみるときにいろんな角度からみるとします。目に映る像は角度によって変わりますが、その中で変わらないものがダンボールなんだと。面がいくつあって、この角度でくっついていて…という角度を変えても変わらない情報こそが手掛かりになっているのだと。

人と向き合うコミュニケーションでも同様ではないかと思います。僕が声をかけて反応する。その繰り返しの中で、「変わらないもの」こそがその人なんだということです。何十年も生き別れていて、容姿は変わってしまっても、反応の仕方で相手が誰なのかわかる。こんなロマンチックなドラマが成り立ってしまうのは、それは「変わらないもの」が見えているからでしょう。

短い期間しか関われなかった人では、その人の「変わらないもの」を見出せなかったために、数十年後に再開できたとしてもロマンチックなドラマは成り立ちません。

「わかりあえないことから」のスタートには、大きな可能性を感じます。もっと咀嚼が必要ですね。

*1:しまいには、いつか付箋の数がページ数より多くなるんじゃないですかと言われてしまいました