モネ展へ
東京へ行く用事があったので、東京都美術館で開催されていたモネ展に行きました。
平日にもかかわらず、モネの代表作である睡蓮の連作は大人気で人だかりができていました。ちょっとだけ通路を通るのが大変でした。
僕はモネの晩年の荒々しさが好きです。今回の展覧会で再確認しました。
色彩や筆致は荒々しいけど、水や物体があることが伝わってくるのが良いですね。
僕のお気に入りの作品は、「バラ園から見た画家の家」「日本の橋」です。表題が同じものがいくつかありますが、どれも甲乙つけがたい。
「バラ園から見た画家の家」を見ていて思い起こしたのは、「肌理」という言葉でした。
生態心理学で有名なJ.J.Gibsonが、優秀なパイロットと優秀でないパイロットの違いについて研究していたときに考えついたものだそうです。 ヒトが床や地面を見ているときに、近くあるものは荒く、遠くにあるものは滑らかに見える「肌理」に、区別するヒントがあると考えました。 空気遠近法などの手法のように、遠いものは細部が認識しづらく、近いものは認識しやすいという前提にもとづいています。
モネの晩年の作品は色彩はめちゃくちゃです。きっと意味合いがあるのでしょうが、僕にはうまく受け取れませんでした。 それでも僕がいいなぁと感じたのは筆致が理由です。モネの作品は、筆の流す向きが縦や横としてきっちり分けて描かれていると思います。 モネ展の解説ボードにも、ときどき筆致に関する記述がありました。
デジタルではなかなか表現しづらい筆致ですが、アナログでは筆致がきれいに現れます。 美術館では適切なライティングでカンバスの凹凸が強調されます。
モネの絵は、近くで見るとよくわからないのだけど、少し離れて見ると、キャンバスに「面」が見えてきます。僕がモネを好きな理由の一つです。 今日モネ展で、すれ違った老夫婦も「面」の話をしていました。 女性「なんだかよくわからない」 男性「目を細めてみると、水面がぱっと浮かぶ瞬間があるよ」
睡蓮は面の代表例だと私は思います。 水面と睡蓮の葉が、明らかに筆致が違います。 水面と水面に写った樹や空は、縦方向に描かれるのに対し、睡蓮の葉は、横方向に筆を動かして描かれています。
「日本の橋」という作品もそうです。橋とその他(水面と空など)は明らかに筆致が違います。 筆の向きというのは、ほとんど意識しないものだと思いますが、認知に大きな影響を与えています。
ここ半年くらいモネの作品を見ていませんでしたが、大きなキャンバスで見ることができて満足しています。 以前は画像ファイルだけで十分だろと思っていた時期もありましたが、 自分の立ち位置によって見え方が変わったり、編集者が編集してくれた順序で回れたりする美術館は、 インターネットで画像を見るよりも、遥かに有意義だと今では思っています。
次は、どこかの博物館へ行こうと思います。いつも足を運ぶのは美術館ですが、読書会で知り合った方から博物館を勧めてもらいました。 その人が見た「始皇帝と大兵馬俑」も、すぐ近くの東京博物館で開催されていました。 今回は美術館のほかに図書館に寄ってしまったので、そちらは保留となってしまいました。
博物館というのは、小学生の頃以来入ったことがないので、思いがけない良い刺激が得られそうです。
焦りが募る。迷い。
ちょっと後ろ向きな記事です。
土曜日から日曜日にかけて、大学祭でした。
内定式も終わり、大学祭も終わり、段々と社会人に近づいてきて焦りが出てきました。
内定者LINEグループでは活発に情報がやりとりされています。僕自身は一人でいるのが好きなのか、あまり積極的にやりとりしようという気持ちにならないのが不思議です。研究室旅行、社員旅行の話題が出たときも、なぜか行きたくないなぁと思ったくらいです。単純にプライベートと仕事を分けたいと感じているんでしょうか。
おもしろいことを考えるよりも、物事を分析するほうが好きなので、研究職も考えましたが、こうして就職を選びました。就職を決めた時点から考えていたことですが、仕事をしてお金を貯めて大学で博士を取ろうという目論見もあります。
この世界で僕が生きるには情報が多すぎる気がします。雑多な情報が多すぎる。みんなこなしていることですが、引っ越し、研究、趣味、頼まれごと、SNS(LINE)、あまりにも多すぎる。一歩間違えば甘えですが「みんなやっていることだから、あなたも」という考え方は危険なのかもしれません。
社会人になったら、シンプルな生活を心がけたいと思います。
以上を書いてみてわかったことですが、現状では一歩も歩みを進めていません。頭でっかちに考えすぎでしょう。きっと一歩踏み出せば、次々とすすめるはずです。
P.S.最近迷ってばかりです。
考えていること
ここに並べたのは上記の文章から生まれた副産物です。葛藤の副産物です。
利点と欠点が見えるけど
二律背反。何も考えたくないからお酒を飲む。お酒を飲むと何もできなくなる。物事には利点と欠点の両面が存在します。利点と欠点を同じように捉えると、身動きが取れなくなります。当然です。利点を挙げて、欠点を挙げて、それぞれについて検討しない限り、「物事には利点と欠点がある」ということしか残りませんから。
利点と欠点が見えることは、とても良いことですが、ただ列挙するだけでは生産的な行為ではありません。そこから今の状況を考えて優先順位をつけなければ、生産的な行為ではありません。利点と欠点は一つの制約・条件です。それのどれを重要と捉えるかは、一意見として昇華する上では必要なことです。ですから、意見なきアドバイスは非常に厄介です。「これこれこうすると、これこれこうだから、私はこれこれこうしたほうがいいと考えます。」というだけで議論が進みます。「これこれこうすると、これこれこうだよ」だけでは足りないのです。
コンピュータと共生
コンピュータで何をしようというのか。今後のコンピュータは人間と共生の方向へ向かっていくというのが持論です。コンピュータはこれまで数値計算などをするためのツールでした。今は機械学習などの最先端研究によって、人間が及ばないような成果を残しています。人間が残す大量のデータ(無意識・有意識問わず)を用いて、人間に対して一つの意見として、情報を提示するように変化していくでしょう。「こういうのはどう?」と。今では、集合知(強調フィルタリングなど)や機械学習によるレコメンデーションシステムなどによって徐々に実現されています。そのうち、コンピュータがコンシェルジュや秘書のように私たち一人一人に、寄り添ってくれる日が来ると思います。ロックマンエグゼのような。
隠れた自分から受ける影響
「隠れた自分」という言葉は、チュニジア出身の方と哲学について話したときに出てきた言葉です。いわゆる無意識です。上節とつながりますが、コンピュータの履歴に残ったものは隠れた自分です。コンピュータが隠れた自分を顕在化しているわけです。LINEで連絡を取ろうとしたときに、履歴が目に入って以前のやりとりに驚くこともあると思います。既読スルーして終わっていたんだな、とか。変なスタンプ送りつけたな、とか。
それを一度意識してしまうと、呼びかけようと思っていた自分に微妙な変化が訪れます。前回は既読スルーしていたのに、呼びかけていいのだろうかとか。ためらいに変わります。案外人間は不安定なものです。その程度で変化してしまうのですから。LINEでは履歴が真っ先に目に飛び込んできますが、それらはメールにはなかったものですね。メールは履歴があったとしても後半に追記される形でしたから。
Twitterやメールでは、最新のものが上に来ますね。LINEでは、最新のものが下に来ますね。この違いはなんでしょうか。上から文字を読む慣習があるため、LINEでは履歴から読みます。Twitterやメールでは、最新から読みます。
履歴を読んでしまうと、文脈を考えるために、次に書く言葉がつられて変化します。たとえ履歴が自分の言葉だけであっても変化します。本来なら独立して書いても良い言葉なのに、影響を受けます。
僕は、この微妙な変化について深く考えてみたいです。そこには言語コミュニケーションでの大切なことが隠れている気がします。
相手の風貌とコミュニケーション
人と話すとき、物事の大枠から話すように常に心がけています。
大枠から仔細、大枠から仔細を繰り返すイメージです。大雑把な概念から、その他概念との違いを説明していきます。
相手のプロフィールがわからない状態でのコミュニケーションはとてもむずかしく、様々な職種の方が集まる大型展覧会ではいつも大変です。
相手の風貌によって、少しずつ判断しながら話すのが適切なのですが、私はそういった視覚的情報を無視する傾向があるように気付きました。
僕の戦略は、いつも何かしゃべってみてその反応をみて、その後の話を変えていくという方法をとっています。この場合相手の応答がわかりやすいと、非常にやりやすいのですが、ほとんどリアクションがない場合にすぐに困ってしまいますね。
友人にこの悩みを話したところ、指輪の有無や年齢層などの風貌で、ある程度あたりを付けて話していくと良いとアドバイスを受けました。容姿的な偏見を持つのが嫌だったという思いがあって、意図的に軽視していたのですが、改めてその重要性に気づきました。
人とのコミュニケーションは、一筋縄ではいかないものですね。
努力というより工夫。「がんばれ」「がんばる」からの脱出
どこかで聞いた言葉。出典は忘れてしまったけれど、とても印象に残った言葉と出会いました。
何か現状に満足できないとき、「もっとがんばらなきゃ」と気持ちを奮わせて挑むけれど、どうにもうまくいかない。
そういうとき、自分に「がんばれ」と言いつつも、友達に愚痴をこぼしてしまう。「うまくいかないんだ……」
友達は、「もっと***をがんばれ」とアドバイスをくれる。他人に言われただけで「わたしはがんばっているのに」と反発してしまう。
やらなきゃいけないことがわかっているのに、どうしても手につかない。そんなとき「がんばれ」「自分ならできる」と自分に喝を入れる。
努力しなきゃいけないという切迫感に「がんばれ」という言葉があたりまえのように、ひっついているけれども、「がんばれ」ってのは無責任。「がんばれ」はただの激励、ただの呪文。
「努力しろ!」と言われても「努力しなきゃ!」と思っても、何をすればいいのか、雲を掴むよう。
終いには、「やらなきゃいけない」という言葉だけが空虚に残って、焦燥感だけになる。そうなると、焦っている自分に満足してしまって、何もしない、何もできない。「わたしはこんなにも苦しんでいるんだ」という無意味な優越感。
努力とかがんばれとか、空虚とは言わないけれど、言葉に振り回されてしまう人にとっては案外やっかいなもの。
そこでヒント。
「努力より工夫」だと。ただがむしゃらに努力するのではなく、手を動かして目標を見つけ、少しずつ工夫する。それが重要なんだと。
ただただ努力という広く先の見えない暗闇を進む必要はないんだ。自分の手に届くか届かないかギリギリのところに手を伸ばして、少しずつ明かりをつけていけばいい。それが工夫なのだと。